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令和5年夏期入峯修行③ご来光~小篠宿

宿坊での夜は四方山話の内に更けていきましたが・・・とにかく寒い!
台風2号が過ぎ去った後に北からの寒気が流れ込んで山の上は冬の気温。
あとで聞いたら5度だったそうですが、お陰で天候は今日も快晴です。
4時に起床。山上東南院の内陣に上げて頂いて朝座の勤行をお勤めさせて頂きました。
これも宿坊に宿泊させて頂けばこその経験です。

4時45分、勤行を終えて宿坊前のご来光ポイントでスタンバイ。
数年ぶりに見事なご来光を拝ませて頂く事が出来ました。
3枚目は弟子が撮った住職の頭山からのご来光らしいです・・・(^^;)


ご来光を拝ませて頂いて朝食を頂きます。
山上の食事は質素ですが、疲れた体に温かいご飯と味噌汁が沁みわたります。
一日の活力を頂いたら宿坊の皆さんにお見送り頂いていざ出発。

山上本堂でご本尊にご挨拶を申し上げていよいよ奥駈道(奥通り道)に入ります。

快晴の山並みを見渡せば手前の地蔵岳の後ろに今日の目的地である大普賢岳から行者還岳をへて遥か奥に見える弥山へとつながる奥駈の尾根道が一望出来ました。

投げ地蔵から地蔵辻、おろち坂(おろし坂)を経て、先ずは当山方の根本道場を目指します。
小篠への入山料を徴収していた小屋跡を過ぎて暫く進めば立派な石垣が道の両側に現れてきます。

吉野桜本坊・内山永久寺・三輪山平等寺・泉州松尾寺などの当山三十六正大先達の寺院や長谷寺、高野山などの大寺院もこの場所に坊を構えていたそうで、古文書では天明7年(1787)の段階で47の坊舎が確認出来ます。

大変に権威のあった宿で、例え門跡であっても新客の入峯の折には谷の一番下にある坊への宿泊や薪集めの役が課せられたと伝わります(勿論形式的な物でしょうが…)今でも谷の随分下まで坊舎跡の石垣が残っています。

現在では聖宝尊師をお祀りする小堂とその前に広がる柴燈護摩道場(当山方表記)、左手岩場に鎮座する聖宝尊師像や石塔が往時を偲ばせてくれますが、この地は聖宝理源大師が57歳の時、役行者の導きによって竜樹菩薩より「理知不二」の秘密灌頂を授かった場所とされ、慧印法流(授峯法流)の一大聖地として栄えた場所です。

ここで聖宝尊師の伝承と、「霊異相承慧印儀軌」の頭書きの部分を読み下して小篠の宿で金剛蔵王菩薩の浄土へ導かれた様子を記したいと思います。

〇聖宝尊師略伝
・聖宝 = 天長 9 年(832)~延喜 9 年(909) 78 歳
・平安時代前期の真言僧
・醍醐寺の開祖 小野流の始祖
・天智天皇六世の孫。光仁天皇の玄孫。諡号は理源大師。
・空海の弟 真雅 の下で得度。
・法流の正嫡弟子である 観賢 が醍醐寺初代座主
874 醍醐寺を開山
880 高野山 真然 に両部大法を受法
884 東寺 源仁 より伝法灌頂を受法
895(寛平 7) 金峯山中にて最勝慧印法流を霊異相承
899(昌泰 2) 吉野 鳥栖 鳳閣寺 にて修験極印灌頂
(慧印灌頂)を開壇 ≪900 の伝有≫

・当時 64 歳の高齢を以て、理源大師は金峯山の造営に力を尽くされた。
・吉野川の六田に船頭 6 人を置いて渡しを整え、
・六尺の如意輪観音、一丈の金色多聞天、彩色の金剛蔵王、地蔵菩薩、
丈六の弥勒菩薩像等を造立して現光寺などに安置し入峯再興・中興の祖とする。
・また、大蛇を退治せられた。
・道を開く時、大木と共に転落しかけた杣人 70 人を法力で引き留めた。
等の伝説的な伝承がある。

〇「霊異相承慧印儀軌」頭書きより
・山上ヶ岳を過ぎ更に深く歩み入ると、忽然と在るべき位置を失われた。
・猛烈な雨は大地を洗い、暴風は大木を倒し、石くれを吹き飛ばして昼間であるのに辺りは暗闇の如くであった。
・やがて自然に風雨が治まると、尊師は寂静厳浄の中に七宝に飾られた黄金の宮殿を拝された。
・其の所こそ将に、金剛蔵王菩薩が居まし給う金峯山上の浄土であった。
・その宝殿中央の金剛宝蓮台の上には金剛蔵王菩薩が座し給い、
・その御前には法喜菩薩(役之行者の化現)を上首として、
・十五童子をはじめ、多くの人々、天の聖衆が倶に居並んで、説法の時を待っておられました。
・時に金剛蔵王菩薩はおもむろに口を開かれて、
 「諦かに聴け、我がこの真の身体は即ち【能寂の世尊】なり」と告げ、更に

・「然し今は末世情念の凡夫を救済するために、仮に猛悪威怒の姿を現じている。
  しかしそれは、絶対普遍の真如の顕現として大身を示した迄の事である。」
・「そこで私は法喜菩薩(役ノの行者の本地)の意願に応えて金峯山を浄土と定め、
  修行者の願い欲する所に応じて
 【微妙荘厳の身】(金剛蔵王菩薩)となり、または
 【忿怒暴悪の身】(金剛蔵王権現)となって現ずるのである」
・「化身として金剛蔵王菩薩・悉担多菩薩・【忿怒金剛王童子】となり、
 【十五童子】とも顕現するが、これは皆、久遠の過去に於て悟りを成じた者達である。」

と告げて十五童子(大峯八大金剛童子・葛城七大胎蔵童子)の働きなどを述べられ、やがて秘密灌頂へといざなわれます。
ここで聖宝尊師がお授かりになった秘密灌頂を体系立てられて鳳閣寺に於て開壇されたのが修験極印灌頂とも言われる慧(恵)印灌頂であり峯授法流(慧印法流)の始まりの聖地がこの小篠宿です。

昨今、当山方の修験の方でも小篠の宿へ入られる方が少なくなってしまいましたが、山上から一時間でお参りすることが出来る距離です。
聖宝尊師の末に繋がる行者さんとして是非お参りしていただきたいと願って止みません。

小篠が栄えたのは霊地である事と同時に水の豊富さも大きな理由のひとつです。
竜ヶ峰から湧き下る水は他の水場が枯れるような時でも十分な水量を保って流れています。

本流の流れの他にも水が多い時などは敷かれた石畳や石段にも水が流れている事が有ります。

奥駈の道中でも年中水の心配がないのは前鬼と小篠だけではないでしょうか。

暫しの休憩を終えて出発前に大黒の窟を遥拝します。
役尊入峯以前から小篠は大黒天の居所とされ、吉野曼荼羅にも投げ地蔵の川上延命地蔵・天河弁財天と共に描かれる大黒天はこの小篠大黒です。

本来は既定の入峯回数を満行した度衆と修行させて頂く大切な行場ですが今年は沢山の新客さんを経筥石へお連れしないといけないので遥拝にて出発させて頂きます。

6月の入峯からはや4ヶ月がたとうとしています・・・
今回は小篠の宿で随分長居してしまいましたが次回からはサクサク進んでいく予定です。
あと二回で今年の夏期入峯のブログは書き終える予定なのでもう暫くお付き合いください。

実は秋入峯も終了しているのでそちらブログも書かなくてはいけないのですが…(^^;)
なるべく頑張って進めますので気長にお待ちくださると有難いです!

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