令和元年「終い不動」
令和元年12月28日
冬の有難い晴天の陽、今年最後のご縁日「終い不動(しまいふどう)」には、たくさんの方にお参りいただきました。
皆様、誠にありがとうございました。
終い不動は、恒例となります法華懺法(ほっけせんぽう)をお勤めさせて頂きました。
お導師様、先生方と一緒に、講員さんもお唱えさせて頂きます。
いろんな人の声が折り重なり素晴らしい声が響きます。
年々、講員さんも上手にお唱えをされるので、心に、胸にあたたかなものを感じます。
仏様に「感謝」を込めて、一年の最後のこの法要は本当に有難い日となりました。
ご法話のはじめに、お不動さまからのお言葉を賜りました。
時代が大きく変わっていく節目の流れの中に今があり、目先のことに流されず
信仰を通じて本当に大事なものは何なのか、常に心の中に持っておきなさい。
※大事なエッセンスだけ、ここに書き残させていただきます。
終不動のご縁日にご参拝頂いた皆様の心にしっかり覚えておいてくださいね。
■終い不動の行事案内から引用
法華懺法は懺悔の法要(悔過といいます)です。
仏様をお招きした道場で仏名をお唱えし、礼拝を繰り返して我々が六根(眼・耳・鼻・舌・身・意【こころ】)で知ると知らざるとに関わらず犯した罪をことごとく懺悔します。
懺悔することによって新たな「発心」(こう在りたいと願う心)が生まれます。
ご法話では、「懴悔」について、丁寧にお話をお聞かせくださいました。
芯から底から「懴悔」をする。
懴悔をすると「発心」が生まれる。
懴悔は後悔ではありません。
「あんなことをするんじゃなかった」から
「同じようなことがあったきどうすればよいか」
「次は、しないでおこう」
「次は、こうあろう」
「次は、こんな人間でありたい」
「どうしたらいいんだろう」という一歩がはじまる、これが「発心」です。
仏様から信仰という「知恵」をもらったとき自分は本来どうするべきだったのか
どうあるべきだったのか
どうありたかったのか
そのことが自分の中に芽生えたとき、
次の瞬間から「そうありたいという自分になろうという努力をはじめたとき」
やってしまった罪はひとつの「経験」になります。罪ではなく「経験」。
だからこそ「経験」をいかして生きていきなさいと仏様はおっしゃっています。
ですから、「懴悔の力」は責罪を滅すると言われています。
この一年間、いろいろあったと思います。一年の終わりに懴悔をして
来年は新しい自分「こんな思いをしなくてよい自分」になれるような一歩を
なにかしらひとつ目標として、新しい年を迎えてもらうと今年の罪は仏様の前で消えていくと思います。
新しい年への「希望」を自分の中にもって、希望が実現できるような年を迎えて、初詣にもお出ましください。
どうぞ皆様。新年一月三日の初詣にお参りくださいませ。
ありがとうございます(o^―^o)ニコ
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