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令和2年 夏期入峯修行 ②

奥駈道に合流し右方向(北)へ。今回は順峯(吉野方向へ)で行者還岳方面を目指します。

ものの10分も笹原の道を進めば大峯75靡の57番一ノ垰(一ノ多和)に到着。

早速勤行を上げさせて頂きます。

垰(たわ)とは峯と峯の鞍部のくぼ地をあらわします。

その昔、私が奥駈に入峯し始めた三十年前は、立派とは呼べないながらもまだしっかりとした避難小屋が立っていましたが、徐々に朽ち果ててついに残骸も無くなってしまいましたが、昔の火床の跡のみがかろうじて残っています。

奥駈けの道もその当時はその小屋の前を通るような形でついていましたが、現在は小屋の裏を回るような形に変わっています。千年以上の歴史を持つ奥駈道ですが、その時々の状況に応じて多少の変化をしながら多くの先達によってその命脈を保っています。

靡を表す大錫杖や碑伝が置かれている木に注意が行きがちですが、この靡の拝所は石積みの中に僅かに窪んだ池(湿地)です。聖宝理源大師が退治し、七つに断ち切った大蛇の一つを封じた場所とも伝わる場所です。

一ノ垰を過ぎて暫く行くと左手に大きな山容が姿を現します。

近畿最高峰の八経ヶ岳・弥山から修覆山・香精山・鉄山へと続く壮大な山塊です。

八経ヶ岳/弥山~修覆山・香精山・鉄山

75靡の51番である八経ヶ岳は修験道の御開祖、役行者が法華経28品八軸の経巻を納められたところからその名が有るのですが、国土地理院の地図では「八剣山」の表記もあるようです。近世以前の呼び名である『奥八軒』の呼び名が明治以降廃仏毀釈の影響もあって『八剣』に変わったものではないかと私考しています。

また、大峯山脈には「大峯山」という山自体は無いのですが、信仰上は山上ヶ岳を「大峯山」と呼ぶのに対して、登山の方々の中には大峯山脈の最高峰(主峯)として八経ヶ岳を「大峯山」と呼ぶ場合もあるようですが、私たち修験者にとってはやはり八経ヶ岳がしっくりきます。奥駈けの折に真っ暗な弥山を出発し、八経ヶ岳でのご来光を拝して感嘆の声を上げられた方も多くおられると思います。

弥山は54番の靡で古くは「池宿」「吉野熊野宿」とも呼ばれて大変古くから信仰を集めたお山であったようです。

その名前は仏教の世界観に於いてその中心にそびえる「須弥山」から仮託されたもので、「吉野熊野」とも呼ばれたこのお山の重要性を物語っています。

その山塊の北の端に鋭い姿を見せるのが「鉄山」です。この山の名前も須弥山を守るように世界の一番外側にある鉄で出来た山「鉄囲山(てっちせん)」からの命名です。弥山の山並みで壮大な仏教の宇宙観が表現されています。

一ノ垰から左手に弥山の雄大な姿を拝みながら一時間ほど歩けば、行者還岳麓の避難小屋に到着します。

また、この間は晴れていれば右手に大台ケ原の日出ケ岳など台高山脈の山々を見ることが出来ます。

早朝の出発でおなかはペコペコ。

まだ朝と言って良いぐらいの時間ですが、避難小屋周辺で一度目のお昼休憩です。

整ったトイレが有るのも女性の参加者には嬉しいところです。

さて、次回はあまりの険しさに役行者も一たび引き返したという「行者還岳」からスタート。

というわけで令和2年 夏期入峯修行 ③へつづきます。

背後に断崖の行者還岳と避難小屋

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