令和4年夏期入峯修行⑦小篠の宿~大普賢岳
前回のブログで大いに脱線してしまった地蔵辻から本題の夏期入峯修行に戻って進んで行きます。
雨で写真が少ない個所は過去の写真でカバーしています。ご了承ください。
地蔵辻を過ぎて少し進むと「おろし坂」と呼ばれる岩がザラザラと露出した坂があります。
その由来については
《鬼おろし(大根おろし)のおろし金のようにザラザラしているから》
《小篠から山上まで籠で移動する門跡も籠を降りたから》
などいろいろと言われますが、私は小篠のある山が竜ヶ峰である事から蛇腹などと同じように龍体信仰とも相まって大蛇が這って削られたような姿から「おろち坂」が元であったのではないかと考えています。
雨量の多い時にはなかなか見ごたえのある滝になりますが、出来れば見たくない景色です。
おろし坂を過ぎて暫く進むと左手に立派な石垣が出てきます。
昔は小篠へ入山する者から入山料を徴収していたという小屋跡を過ぎると当山方修験の根本道場である大峯75靡中66番目の靡き「小篠の宿」に入ります。
少し雨足の強まる中、聖宝理源大師をお祀りするお堂で勤行させて頂きます。
現在では聖宝尊師をお祀りする小堂とその前に広がる柴燈護摩道場(当山方表記)、左手岩場に鎮座する聖宝尊師像や石塔が往時を偲ばせてくれますが、この地は聖宝理源大師が57歳の時、役行者の導きによって竜樹菩薩より「理知不二」の秘密灌頂を授かった場所とされ、慧印法流(授峯法流)の一大聖地として栄えた場所です。
吉野桜本坊・内山永久寺・三輪山平等寺・泉州松尾寺などの当山三十六正大先達の寺院や長谷寺、高野山などの大寺院もこの場所に坊を構えていたそうで、古文書では天明7年(1787)の段階で47の坊舎が確認出来ます。
大変に権威のあった宿で、例え門跡であっても新客の入峯の折には谷の一番下にある坊への宿泊や薪集めの役が課せられたと伝わります(勿論形式的な物でしょうが…)今でも谷の随分下まで坊舎跡の石垣が残っています。
当地が栄えたもう一つの理由としては水の豊かさです。
大峯奥駈けを歩かれた方ならば水場の少なさに悩まされた方は多いと思います。
宿坊を抱える山上ヶ岳でさえも下から水を汲み上げるポンプが出来るまでは雨水と窪地に湧く僅かな水が頼りでした。
一方、小篠は竜ヶ峰から湧き流れる水が渇水期でも枯れる事無く抱負に湧いています。
この清水は今も昔も大変有り難い価値のあるお水です。
あと、小篠の宿で忘れてはいけないのが「小篠大黒」です。
多くの吉野曼荼羅では蔵王権現や八所明神の上に山上ヶ岳を描き、その上部に大黒・地蔵・弁天の三尊が描かれる事が有ります。
弁天は弥山の天川弁天、地蔵は先述の投げ地蔵、大黒はこの「小篠大黒」です。
その大黒天の居所とされるのが「大黒の岩屋」です。
独特のお参りの仕方が有りますがそれは先達さんに教えて貰ってください。
山上の裏行場にも大黒天を拝む場所が有りますが、実はこの小篠大黒を遥拝していることはあまり知られていません。
我々も本年は雨のためにお堂の側から遥拝とさせて頂きました。
大黒の岩屋(過去写真)
小篠の宿を後にして、往時を偲ばせる石畳が残る道を竜ヶ岳の頂上を巻くように登っていくと暫くは気持ちのいい尾根道を歩きます。
この辺りは樹木の更新の真っ最中で、立ち枯れた木や台風の倒木に代わって次々と若木が育っています。
その為、晴れていればとても見晴らしの良い場所ですが、霧や雨の時も若木の緑が一段と映えて美しい場所です。
尾根から樹林帯に入って暫く進むと熊野側の女人結界門に出ます。
ここが65番目の靡き「阿弥陀が森」です。
古来、吉野道と同様に正規の山上参りの参道とされた柏木道との合流地点の辻となります。
写真は奥駈道の熊野側から撮ったもので、結界門の奥が小篠の宿・山上ヶ岳方面、道標の右方面が川上村・柏木への道となります。
結界門の奥に広がっているなだらかな森が「阿弥陀が森」です。
その頂上には弥陀の影向石があると伝わりますが、お山の修行では一部の山を除いて山の頂上を踏みません。
それは西洋の征服登山とは違い、あくまで御山は信仰・修行の対象であり、神仏の顕現であり、その頂を踏むことは畏れ多い事とされました。
奥駈道の多くが山頂のすぐ脇を巻いて通っているのはその為です。
阿弥陀が森も山頂の方を向いて勤行させて頂きます。
阿弥陀が森からは奥駈道を南へ、先程やっと上った分とほぼ同じだけ下って行きます。
人生も同じで、登りの時は辛いものですが目標を以て一歩づつ歩ませて頂きます。
一方、下りは一見楽な様ですが膝を壊したり滑って転倒したりと事故の多いのが下りです。
油断せずに足元をよく見て、杖を使って下って行きます。
下りきった先にはぽっこりと開けた広場が有ります。此処が脇の宿跡です。
この広場の中心には大変シンボリックな大木が生えていて長らく礼拝の対象となっていましたが、2018/9/4に近畿地方を襲った台風21号の被害によって無残にも途中から折れてしまいました。
大木の影が無くなったこの地も光が入って、やがて新しい木々が育っていくのかもしれませんが、今はまだ長年の思い出を胸に折れた大木に向かって勤行を上げさせて頂きました。
この地は小篠から谷を隔てた脇にあるので「脇の宿」と呼ばれますが、他にも「元小篠」「大篠の宿」ともよばれ、古来大変に重要な宿であったようで、ここを拠点に様々な行場や秘所に分け入ったようです。
代表的な場所としては、この宿から西へ下る神童子谷の支谷であるノウナシ谷を下った先には「地蔵滝」「馬頭滝」「千手滝」と三つの滝が落ちています。
この宿の本来の信仰対象は写真の磐座であったようで昔は掛屋がかけられて居たようです。
重要な宿ではあったものの、やはり長期に逗留するには水の便も悪く、やがて小篠が逗留の拠点として栄えていく事になったようです。
奥駈峯中の中でもお気に入りの場所の一つなので例年は少し長めに休憩するのですが、今年は雨の為に立ち休憩で出発します。
ここから先はシャクナゲの群生地を抜けたりしながらの登りが続きます。
急な登りでは無いのですが、風が抜けない場所なので暑い時期には湿度も上がってダラダラの登りに体力が奪われます。
このころには雨も上がって天気は回復傾向でしたが、ガスが晴れずに時折開ける谷間でも展望は有りませんでした。
山の中腹を駈ける道から左手斜面への登りに変わると経筥石(きょうばこいし)まではもうひと登り。
掛け念仏の声を振り絞って上ると経筥石遥拝所にたつ大錫杖が見えてきます。
この場所で全員で勤行をあげますが、実際の経筥石は此処から往復30分ほどの時間を要する新客行場です。
分岐を左に取り、和佐又方面に落ち込む谷を下った先に実際の経筥石はあります。
しかし、通常でも足場が悪く危険なうえ、近年足がかりにしていた石が落ちてしまい益々行きにくくなっています。
それでも通常であれば新客さんをお連れするのですが、今年は雨の影響で足場が悪いので裏行場に引き続いて経筥石の新客行場も中止とさせて頂きました。
今年の新客さんには来年以降に是非ご参加頂いて行じて頂きたいと思います。
経筥石にも勿論伝承が有るのですが、そのお話しは次回に譲らせて頂きます。
経筥石から10分程度の急登を登ると大普賢岳の脇に2座ある「小普賢岳」の一峰、山上ヶ岳側の小普賢岳に到着します。
このお山は写真の岩が頂上となっていて、その岩を囲むように並んで勤行を上げさせて頂きます。
小の普賢=顕教の普賢菩薩。大の普賢=密教の金剛薩埵として拝させて頂くのです。
小普賢岳(北)からは眼前に聳える大普賢岳を目にすることが出来ます。
大普賢組との合流地点まではあと少し。
勤行の法螺の音ももう聴こえているはずです。
しかしその前に足場の悪い岩場を下らなければいけません。
ここまで来て怪我をしては元も子も有りませんので、杖をしっかり使って下って行きます。
小普賢岳を下って笹原の広がるなだらかなコルを超えて少し登ると五葉ツツジやドウダンツツジの林があります。
その林を超えた先が和佐又方面、笙の岩屋からの道との出会いになります。
今年は大普賢組の皆さんが元気にお出迎えして下さいました。
年によっては我々が大普賢組をお迎えすることも有りますが、電波の繋がらないお山のことなのでここで無事に出会えると心から安心します。
お互いの組が魔事なくここまで歩かせて頂いた事に感謝しながら勤行させて頂きます。
晴れていれば大普賢岳頂上や水太覗きからの展望が素晴らしいのですが、今回は霧で視界が悪い上に足元が濡れて下りに時間が掛かりそうなので食事休憩のみで出発です。
(大普賢岳は数少ない頂上を踏んでも良いというか本来は踏むべきお山です)
この日の昼食は大普賢組の皆さんが我々の分のおにぎりも背負って登って来てくださいます。
このおにぎりがひとしおに美味しいのです。
さて、無事にブログも合流地点までたどり着きました。
此処からは笙の岩屋に下ってお護摩を修法させて頂くのですが、その前に。
もう一つの組である「夏期入峯修行 大普賢組」の登拝の様子をご紹介いただきたいと思います。
ということで、次回のブログは大普賢組の責任者、令和4年慈唱院夏期入峯修行の権大先達を務めた洸月師に一旦バトンをお渡しさせて頂きます!
引き続きお楽しみ下いませ!
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